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これまで文を担当していたろくちゃんは、いやすこ修業の旅に出た。「先輩よろしく。行ってきまーす」の言葉を受けて、年だけ先輩の私だけど、いざ「いやすこ道」へ。ろくちゃんが残したお題は「隣のコロッケ」。さすがろくちゃんと納得しつつ、早速出陣!
 そのコロッケ屋さんは画伯の仕事場から歩いて5分、仙台朝市(青葉区)の中にあった。その名も「斎藤惣菜店ころっけや」である。
 朝7時半。約1時間かけてふけ上がったジャガイモを、次々と機械に入れてはつぶす作業が始まっていた。1日に使うジャガイモは60〜70キロ。数にすると1000個以上だ。
 「使っているのは北海道の男爵イモ。ほくほくと甘くて、これが決め手なんです」と、湯気を立てるジャガイモの山を前に3代目の斎藤達也さん(30)。皮ごと使うことで、うまみを逃さないそうだ。
 傍らでは若き番頭の佐藤純さん(34)がタマネギを炒め、ペシャメルソース作りを始めた。斎藤さんはつぶしたジャガイモをたらいに広げ、片手にへら、片手に扇風機で冷ましつつ水分を飛ばす。これをペシャメルソースの中に入れ、混ぜていく。こうして1日に必要なコロッケ1500個分の生地の完成だ。
 時計を見ると午前8時きっかり。作業台はピカピカに磨かれ、コロッケの型取り機の試運転が終了すると、パートさんもそろって5坪の店の中に7人。形を作り、小麦粉、卵、パン粉と3重に優しく包み、大きなフライヤーで揚げていく。人一人が立てばいっぱいにも見える店先の奥で、こんなにも速やかに、美しく、技あり熟練リレーが繰り広げられていたとは!
 油の中で気持ちよさそうに泳ぎ、きつね色になったところですくい上げられていくコロッケたち。見ていて楽しくなる。このころには街なかにお店を出している人や、夜勤明けの人などお客さんの姿。

 小学生のころ、お使いに行かされた記憶がよみがえる。当たり前にあった八百屋、魚屋、酒屋の店並びの中、肉屋さんではコロッケをその場で揚げてくれた。おまけをもらって食べたことも。確か、当時は1個5円だった。「私は学校の帰りによく買い食いもして」と画伯。そんな買い食い派、かつての高校生も懐かしがって買いにくるという。3代続いての常連さんも。
 正式開店の午前9時には、看板商品のじゃがじゃがコロッケやメンチカツをはじめ、20種類ほどが並ぶ。「コロッケは、ジャガイモが甘くなるこれからがおいしい季節です」と斎藤さんはうれしそうに話す。

 戦後、進駐軍相手の洋食屋でコロッケの作り方を習得した初代が、昭和33(1958)年に仙台朝市に店を出して57年。材料は全て朝市の中で買うように、というのが初代からのお達しとのこと。戦後70年の歴史とともに歩んできた仙台朝市には、そんなご近所付き合いの伝統も脈々と流れているのだ。それもまた、いやすこにとってはほっこりする話である。
 季節メニューのかきクリームコロッケもお目見えし、ますますおいしいコロッケシーズン到来だ!

◎おぼえがき/日本独自の洋食 逆輸出も

 トンカツ、カレーライスと並んで日本三大洋食の一つがコロッケ。名前はフランス料理の付け合わせのクロケットに由来する。クロケットとは日本のクリームコロッケのようなもの。明治維新後、西洋文化導入の流れの中で、宮中や鹿鳴館での西洋料理から庶民へと広がっていく。和洋折衷によって新たに「洋食」が生まれたわけである。
 コロッケとクロケットの違いはジャガイモだ。ジャガイモは北海道開拓によって明治7(1874)年に本格的栽培が始まり、日本人の口に合うように作られたのが「イモコロッケ」。日本にしかない独創的な洋食の誕生だった。
 それから130余年の歴史の中で、大正時代の関東大震災後に肉屋さんが総菜として売るようになった。昭和20(1945)年の終戦後も、焼け野原の東京・銀座でいち早く売られたという。
 今では海外に逆輸出され、そのまま「コロッケ」と呼ばれている。また、冷凍食品で最も多く生産されているのもコロッケだ。
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 土地には、その土地ならではの食があります。自他共に認める「いやすこ(仙台弁で食いしん坊のこと)」コンビ、仙台市在住のコピーライター(愛称「みい」)とイラストレーター(愛称「画伯」)が、仙台の食を求めて東へ、西へ。歩いて出合ったおいしい話をお届けします。

<みうら・うみさん>コピーライター。1955年仙台市生まれ。メーカー広報室を皮切りに数社に勤務し、文章作成歴三十数年。年齢を重ねれば重ねるほど地元食材にひかれるようになり、作る人・届ける人を伝える文章精進中。仙台市青葉区在住。

(文・みうらうみ 絵・本郷けい子)

河北新報ー2015年11月09日 月曜日